「村野藤吾の建築-模型が語る豊饒な世界」@目黒区美術館

目黒区美術館で11日から始まった企画展「村野藤吾の建築-模型が語る豊饒な世界」へ。
13時半から、長谷川堯氏による特別講演会「村野藤吾が私たちに伝えるもの」も聴講。
1階と2階に分かれた本展会場には、村野藤吾(1891-1984)の作品模型80点と、当時の図面やドローイング、撮り下ろしの現況写真などの関連資料が展示されている(1階の模型5点のみ撮影可)。その趣旨は、展覧会タイトルが端的にあらわしている通りである。

本展の開催は、村野藤吾の遺族から京都工芸繊維大学に5万点もの設計原図が委託されたことに端を発する。教員らによる「村野藤吾の設計研究会」において研究が進み、1999年には「村野藤吾建築設計図展」が開催され、13回を重ねている。研究と並行して、同大学の学生らによって、実現しなかった作品を含めて原図を読み込み、今日まで続く模型制作が始まった。会場に並んでいるのは、2015年の建築学会業績賞を連名で受賞することになるこれらの活動(工繊大ニュースリリースの一端を担う、制作に1,000時間はかかっている(図録P.021:京都工業繊維大学美術工芸資料館教授 松隈洋氏の序文より)という模型の数々である。
上の画:「村野藤吾の建築-模型が語る豊饒な世界」展メインビジュアル(模型撮影:市川靖史/京都工業繊維大学大学院助教、デザイン:中野デザイン事務所 は実際の光景ではなく、「東京都庁計画案」などアンビルトを含むさまざまな模型12点で構成されている。純白の模型だけで構成することで、数の多い2階の会場では特に、村野藤吾の作家性を浮かび上がらせ、氏が思い描いたかもしれない都市の景観をも出現させようとしている。2階は撮影NG。つい撮りたくなる模型だが、シャッター音が聞こえない静寂の中でじっくり集中して観賞し、情報を吸収した方がよい。

以下に掲載する写真は、1階エントランスホールでの展示(1階の模型5点に限り、撮影およびSNS掲載可)
図録の構成は「東大阪教会」(1928年竣工、現存せず)に始まり、以降は時系列に、1988年竣工の《三養荘新館》まで全80点が並ぶが、会場では、東京|美術館|教会・修道院|住宅|庁舎|百貨店|娯楽・集会施設|ホテル|オフィスビル|大学・研究所|交通などのカテゴリー別となっている。実現しなかった戦前のダンスホールや「志摩グランドホテル計画案」などのアンビルト9点の模型も含む。この1階のカテゴライズは[東京]に属する。
93才で亡くなる日まで仕事をしていたという村野藤吾。絶筆というドローイング(《三養荘新館》の配置検討図:2階の展示)は驚くほど力強く、思わず息を呑んだ。インタビューなどの映像資料はないが、添えられた解説文を参照しながら、さまざまなアングルから模型を眺めたり、詳細な手書き図面を読み込むにも相当の時間を要する。
「千代田生命本社ビル(現目黒区総合庁舎)」S=1:200模型(1966年竣工、現存)

千代田生命が経営破綻した後に目黒区が建物を取得し、2003年に改修されて《目黒区総合庁舎》として用途変更されて話題となった。だが、模型と同じ全景を現地で見ることは空撮でもしない限りは出来ない。例えば駒沢通り側では、高台の一角が区民公園に変わり、歩道橋からの眺めが緑で遮られる(下の画、目黒区美術館主催「建築ガイドツアー」参加時のもの)
竣工当時は周囲に高い建物もなく、景観も随分と変わっただろう。ゴールデンボードという強度のある真っ白な紙で細部まで詳細に制作された模型が並ぶ本展では、これらの"ノイズ"に影響されることなく純粋に、村野建築のディテールを好きな角度から堪能できる。ファサードの前に道路標識はなく、空調室外機が屋上に並んでいることもない。
敷地の高低差を考えて、長谷川氏いわく「沈むこむように」設計されていることがよくわかる。下の画・中央に斜めに開いた四角い穴の下に建っている茶室まではさすがに再現されていなかったが。
旧《千代田生命本社ビル》の"顔"ともいえるファサードのアルミダイカスト1つ1つまで極めて精巧な模型で、作り手の情熱が伝わってくるようで、見る側も気持ちがいい。
北側・商店街側のファサードも、ビルの間に埋もれることなく、全景が確認できる。
なお、同ビル内のディテールとして有名な「螺旋階段」の展開図や、館内で実際に使われていた時計も壁側に展示されているのでお見逃しなく。

「日本生命日比谷ビル(日生劇場)」S=1:200模型(1966竣工、現存)
下の画は現地にて今春、帝国ホテル側からの眺め。
現地では見上げになるので、屋上の塔屋などは確認できない。だが、模型では可能に。
 屋上はこんな造形になっていたのかと初めて知る。今春に《目黒区本庁舎》の屋上にあがった時に感じていたが、本展を見て改めて、村野建築の塔屋は凝っていて面白いと思った。

「日本興業銀行本店(現みずほ銀行本店)」S=1:200模型(1974年竣工、現存/但し、近く解体予定とのこと)
下の画は2015年11月3日の撮影。
大手町のビル群に囲まれ、あるいは敷地を接しているため、模型でしか目にすることができない西側側面。通りに面し、オフィス街を往く人々の目に触れる東側とはまるで違う"横顔"。

「森五商店東京支店(現近三ビルヂング)」S=1:100模型(1931年竣工、現存)
吹き抜け部分もきっちり作りこんだ模型に脱帽。

「読売会館・そごう東京店(現読売会館・ビックカメラ有楽町店)」S=1:200模型(1957年竣工、現存)

腰を屈めて模型の中を覗き込むと、数カ所に階段が確認できた。今日では量販店の物置スペースになっていたり、往時の姿を見ることは叶わないらしい。長谷川氏のスライドにあった美しい見下ろしの画を目に留めるのみ。
 何度も前を通っているのに、JR側のラインがこんなふうにカーブしていて、塔屋の大きさや角度についても模型で初めて知る(この楕円の凹形について、後に聴講した本展特別講演会にて、長谷川堯先生は「北側に建つ《東京国際フォーラム》の凸型カーブに連なっている」と指摘。また最上階に今もあるかは不明の茶室の写真も映写)
下の画、南北から撮った2点は2015年11月11日夕刻の外観。
道を挟んで丸の内側にあった、丹下健三設計の旧《東京都庁舎》とは竣工年を同じくするが、あちらは西新宿に移転したので現存しない。1937年生まれの長谷川堯氏は、並んで建設中の当時、建築評論界から浴びせられた村野批判について、学生だった時分にはそれに同意する部分があったと苦く振り返りながら、現代建築への批判を込めて、今にして思うところを忌憚なく語った(講演は"予想"通り、予定時間を超過。数々のエピソードと貴重な作品写真も披露された。その中には現存しない《村野邸》の内外観も)
「現代はビルディングばかり建ってアーキテクチャーがない」「何らかのかたちで人が自分の身体を落とし込めない」「人が心を通わせられない」という長谷川堯氏の批判は、主催も会場も別の企画展関連トーク(「建築の皮膚感覚 ジオ・ポンティと村野藤吾の表現を探る」)の時にも繰り返されていた。いわゆる「新国立競技場問題」が起こってしまうような今だからこそ、建築家村野藤吾を冷静な目で捉え直すことで、建築と人との関係性を築き直せるチャンスを得られるのかもしれない。
会期中、ワークショップなど関連イベントは多数開催予定(壁の目地を利用した告知が、シンプルでわかりやすかった。同展で図録とフライヤーなどのデザインを担当した中野豪雄氏の仕事と思われる)

会場を辞した後、本展図録に最後まで目を通すと、巻末に収録された笠松一人氏(京都工繊大学大学院助教)の論考のなかに、村野藤吾は「建物を設計する際に油粘土で模型を造り、デザインを立体的に検討した。」という記述と、現《日生劇場》の粘土模型を側面からみた図版があった。関係者の想いが詰まった充実の図録を手にもう一度、会場および現存する作品の現地に行かねばと思う。

村野藤吾の建築-模型が語る豊饒な世界」は会期9月13日まで。開館は10-18時(入館は17時半まで)、月曜休館。有料。

目黒区美術館
http://mmat.jp/




+飲食のメモ。
入館料なしでも利用できるようになった1階ラウンジは、13-16時のみ喫茶営業がある(会計は美術館受付にて後払い)。長谷川堯先生の講演会前に、図録の序文(長谷川堯×松隈洋対談収録「村野藤吾が現代に遺したもの」)に目を通しながら、糖分とカフェインを摂取。
ホットコーヒーと、袋売り4-5種類から選べるクッキーを付けて350円。おいしい+そしてCP高し。
おいしゅうございました。ごちそうさまでした。

参考:この日のランチは、会場と目黒駅の間に位置する「果実園 リーベル」にて。