村野藤吾「目黒区総合庁舎」見学ツアー:和室集中コース

村野藤吾が《千代田生命本社ビル》として設計し、現在は「目黒区総合庁舎」となっている建物を再び見学(「建築ガイドツアー」主催:目黒区美術館および目黒区)
前回(4月17日blog既出)は建物全体を見て回る総合コース。今日は村野藤吾による和のしつらえをじっくり見学する和室集中コースに参加(有料各回500円)
上の画は、本館1階食堂側の館内廊下のガラス越しに、池を挟んで、3つある和室のひとつ「しじゅうからの間」の眺め。

以下は主に、4月17日および5月1日に行なわれた目黒区美術館ボランティア会メンバーによる「建築ガイドツアー」における、次回に備えた未確認事項を含めた備忘録+配布資料+目黒区公式サイトをはじめ外部リンク先の開示情報に基づく。
参考資料:『建築用語図解辞典』(理工学社 1970),『図説 日本の住まい』(建築資料研究社 2009)、『村野藤吾建築案内』(TOTO出版 2009)


下の画は、前回の見学コースに含まれていた本館8階屋上からの、中庭の見下ろし。
旧《千代田生命本社ビル》は高低差のある敷地を活かして設計されており、本館2階と1階部分は、現在は駐車場となっている地面よりも下層にある。池をコの字に囲んだ本館の一角に、社員の福利厚生施設として用意された3つの和室と茶室がある。
《千代田生命本社ビル》は1967年の竣工。この日のガイドK氏の説明によれば、移転前の本社は銀座にあり、今ほどの賑わいはなく、住宅も疎らだった。のどかだった当地への通勤を嫌い、女性社員が大勢退職する事態となる。おそらくはその対策もあって、福利厚生施設に重きを置いていた千代田生命だが、2000年に経営破綻する。アメリカ資本が所有した後、2003年に「目黒区総合庁舎」として再生された(用途変更設計:安井建築設計事務所
村野藤吾が手掛けた和室は3つ、各室で広さも意匠も異なる。当時ママの状態ではないものの、数寄屋の名手と称されている村野藤吾による、"モダン"という一言では言い表せない独自の空間と繊細なディテールの数々に目を奪われた。
「しじゅうからの間」は平日の開庁時間内は一般開放されている(参考:目黒区役所公式サイト〜施設案内)。踏み込み(玄関)の見上げ部分から既に、村野藤吾のデザインが始まっているような。
変形7畳半の広さ、畳は京畳。
右手の青い襖の先は、入隅・出隅の内壁を共有している「しいの間」に続くが、現在は通行不可(理由は後述)。出隅を回り込んだ先、アカマツの床柱を抱いた板の床がある。この床の間まわりの意匠が面白いとガイドK氏が指摘。落し掛けの上が空いていたり、成る程、半畳が敷かれた左隅には白い腰貼りも(取り損ねた画は、目黒区総合庁舎〜建築家村野藤吾氏の建築意匠概要〜和室ページを参照)
障子も独特。組子を2本ずつ1組で配置した吹き寄せ。長押の上の雲障子、手前の明かり障子、3つそれぞれで異なる組み方をしている。
池に面したこちらの和室、陽が差し込む晴天の昼(上の画)と、日が陰る夕刻の時間帯(下の画)、障子の開け閉め、照明の点灯有無によって、景色と光の印象がまるで違った。
床柱の前から、西側の眺め。池を挟んで本館の食堂と対する。
障子を閉め切り、消灯した状態、夕刻17時頃。
同じく夕刻、障子を閉め切った「しじゅうからの間」の踏み込み側からの眺め。
上の画は照明点灯中の夕刻。天井の中央部は籐と葭によってさまざまに編まれ、無目の幅も一様でない凝った意匠。池側に勾配をつけた掛込天井なのだが、そのまま外の土庇に繋がってはいない。
障子を開けると、勾配と意匠の違いがわかる。室内は縁なしの板貼り、外は軒裏の垂木が見えている。
休憩室(旧社員クラブ室)の一角から、窓ガラス越しに「しじゅうからの間」の眺め(上の画は13時頃)
手前にあらわしの丸柱も写っているが、軒先の縁側柱、軒桁と縁側の手摺はコールテンかスチールと思われる。縁側の下の水面付近は、本館の外壁の設置面と同様に、石貼りでカーブをつけた、当ビルのあちらこちらで目にする"地から生えたような"形状。
駐車場からの見下ろし。一文字葺きの屋根が確認できる。池を挟んで対面に食堂と売店がある。

続いて「しじゅうからの間」に隣接する「しいの間」を見学。
ガイドK氏の記憶によれば、スギの竿縁天井から下がっていたかつての照明は、グレープフルーツ大の乳白ガラスだったとのこと。
廊下側の2本の角柱を前に出し、L字に地板をまわす独特の意匠。対面は真壁で中央に面皮柱、床柱は円柱で、この八畳間だけで柱は3種類もある。
面皮柱とは、丸太材の四方の丸みを残し、間の面を平らに加工して板目を見せた仕上げ。柱を露出させる真壁では、柱に残る自然な丸みの分だけ、土壁と柱の境にフリーハンドのような微妙なラインが生まれる。
ほら口の先は、前述「しじゅうからの間」に繋がっている。
現在、出入りが禁じられているのは、縁がまわっていない開口部の塗り壁が傷みやすいため(既に一部が欠損している)。襖は「しじゅうからの間」から見ると濃紺だったが、こちら「しいの間」は淡い水色による小花模様。
竣工時ママとすれば、廊下および隣接する間の玄関口に設けた格子の影が、室内の明かり障子にどのように落ち、人の目に重なって映るかまで、村野藤吾は計算していたのかも。
「しいの間」の踏み込み(玄関部分)の天井、および物入れの仕上げは、スギのへぎ板による網代(あじろ)編み。
既製品では生じ得ない素材ごとの"色ムラ"が、経年変化でさらに味わいを増す。
3部屋のうち最も広い和室「はぎの間」へ。和室エリアの廊下の天井にはある種のリズム感があるような。
翻って見れば、スチールと大判ガラスが連続した廊下の壁の一端に、いきなり茶色の左官壁と、礎石に据えられた(ようにみえる)太い角柱がたっているというのは、今でこそ旅館や飲食店などで見慣れているが、けっこうな設えなのではなかろうか。さらに、ガラス壁の向こうの中庭には露地と茶室まである。
2002-2003年のコンバージョン工事の際、床タイルは張り替えたようだが、村野藤吾の意匠が残る柱や壁のまわりはママのようだ。黒の色味とサイズが異なる。
踏み込みの上がり口から京畳が敷かれている。「はぎの間」は合わせて34畳敷きで、かつては社員の宴会などに使われていた。
12畳の間に続き、落掛けなし・円窓の床を設えた19畳の広間。入口から奥に畳の縁が一直線に伸び、縁が床の間に"刺さる"のはタブーの筈だが、奥行き感を優先したためか。
仏閣でよくみる合天井とは趣を異にする天井の意匠。四角は正方形でなく、上の画でいうと奥に若干長い(奥を見渡した時に正方形に見えるように?)。何より四角形の隙間に埋め込まれた十字形照明が目をひくが、かつてこの部分には白い和紙が貼られ、もっと柔らかい光を落としていたとのこと。
「しいの間」でも目にした、地板をまわして手前に角柱をたてた意匠。この"二重構造"は和室以外の館内外あちらこちらに共通する。例えば、南口玄関ホール、アルミキャストのファサードなど。
内側の角柱と、聚落土の左官壁に挟まれた面皮柱。その上は化粧用の蟻壁長押か。
遠くから眺めるとまだらに見える襖紙。近寄ると、繊細な木枝の紋様が浮かび上がる。木版刷りの襖紙は京からかみの老舗・唐長による特注品(制作年は不明)
「はぎの間」の前述の出入口側に設けられた床の間(ほら床)。
廊下に直結した出入口も別にあり。
「はぎの間」で入口付近の明かり障子。縦桟が吹き寄せ。前述「しじゅうからの間」の出入口の障子は、逆に横桟が吹き寄せ。

靴に履きかえ、屋外へ。露地を小さくぐるりと回り、いよいよ茶室へ。茶室とその奥にある水屋、付随する屋根が雁行する配置。
細いスチールの柱に支えられた鋼板屋根の上は、コンバージョン後は駐車場となっている広い広場である。
本館屋上からの見下ろし。旧広場の真ん中に設けられた十字形の吹き抜けから、樹木が突き出し、波状の銅板屋根が覗く。外側の高い柵は用途変更時の法に適合させた追加と思われる。
トタン波板に見えなくもない茶室と水屋にかかる片流れ屋根は、割り竹を模した一枚の銅板(註.『村野藤吾建築案内』P.082の表記は鋼板)で、わざわざ上からさらに径の小さい鋼材を被せている。
パッと見では木材に見える軒桁は、ワザと錆化させたコールテンのI型鋼。直行する力垂木も同様。
雨落ち溝のない、露地手前の軒先の樋は、本物の半割竹。この軒樋が無いと、客が蹲踞(つくばい)の水で手と身を清める際、雨天時に雨水が滴ってきてしまうだろう。濡れないギリギリの軒下だが。
手水鉢に水を落とす、竹の筧を辿っていった先が下の画。
茶道の作法と造作に詳しくないので推測だが、亭主用の手水鉢か。客用の蹲踞の石のかたちと組み方が荒々しいのとは対照的。石の表面は焼いたか噴いたか加工しているのかもしれないが。
これら蹲踞まわり、石灯籠、塵穴(ちりあな)の石も全て、村野藤吾による設え(地上の駐車場と築山の境でも様々なかたちの石が見られる)。三和土(たたき)は京都の深草砂利を混ぜたもの。
貴賓口から内部を見る。躙口は右側側面に。
四畳半切り本勝手の平面などから、内部は京都 裏千家「又隠(ゆういん)」の写しといわれる。貴賓口と正対せずにやや斜めにズレた床の間の配置など、一部に崩しがみられる。
掛込み天井の又隠とは異なる近代の仕上げ。本館3階の大階段脇にあった解説パネルに寄れば、"天井に和紙を張り、さらに二重網にした藤の網代をはめて蛍光灯の光を和らげている"。
こんな凝った意匠の下で、茶道部など社員のクラブ活動が行なわれていたとは、隔世の感がある。たかだか40年も経っていないけれど。
内部から下地窓の見上げ。
給仕口(火燈口)越しに茶室内部の眺め。床はスギの面皮柱。床の間を挟んだ右と左で、亭主が座す点前の側と客が座る側で、腰貼りの和紙の色および高さが異なる(亭主側は清楚な白、客側は濃い色で2段貼りとなる)。ガイド氏によれば、元々は着物の帯などが土壁で汚れないよう、あるいはその逆の目的だったが、時代を経て意匠的な役割も果たしている。
亭主が出入りする茶道口。火燈口共に縁なし太鼓張りの襖の開け閉めは切り引き手にて。
水屋飾り。天袋、隅棚、通し棚、水切棚、腰板に竹簀子の下部流しなど。
水屋の天井は、スギの折ぎ板(へぎいた)による網代天井。折ぎ板を水に浸してから編むという、手間がかかった仕様。
水屋の出入り戸。木戸の内側に竹の桟をわたしてある。
図面上は水屋と扉一枚で繋がっている、福利厚生棟湯沸室の小窓。窓はサッシだが、露地側が竹の格子という。見事な意匠の統一。
水屋の連子窓。
こちらの露地は難解なパズルのよう。一人では解けない。ひとつひとつ解けていくその都度、美を感じる。
外の天井も手抜き無し、雁行形状に沿って網代編みがはまっている。
本館「はぎの間」玄関脇からのアプローチ。横桟の塀が同じように雁行する。
横桟(一部で縦桟)の塀は茶室全体を覆い、館内通路側からの視線を柔らかく遮ってくれる。
本館1階の通路を挟んだ一角は、かつては社員クラブ室があったエリア。現在は誰でも自由に使える休憩室となり、ドリンクの自販機も2台置かれている。
自販機前のぽっかりと空いた空間がなんとももったいない。壁と床のタイルは当時のものだろう。
建物と一緒に家具もデザインすることが多かった村野藤吾。彼のデザインかどうかは不明だが、「かなり昔からあった」とガイド氏がいう3連1組のソファ。EV前やカウンター前の待ち合いでも見かけた。
見学は16時で終了。17時まで営業している売店でドリンクを購入、かつては炎をイメージした噴水が一望できたであろう、窓際のテーブル席で休憩。昼過ぎは各テーブルほぼ満席だったが、夕刻は空いていた。

確認しそび撮り損ねた箇所は多々あり。ことさら今回の旧《千代田生命本社ビル》の見学では、これまで京都を中心に数多くの仏閣や茶室を見て回っているのに、数寄屋および茶室の設えについて全く知らず、何ら疑問を覚えることなく、単に"眺めていた"だけだったと痛感。Cコースのコンバージョンコースも辿りたいが、既に今年の回は募集終了。 5月15日に当ビルで行なわれる第28回村野藤吾賞受賞記念講演会聴講申込も早々に閉め切られた今、7月に目黒区美術館で開催される企画展「村野藤吾の建築-模型が語る豊饒な世界」をジッと待つ。

目黒区総合庁舎
www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/chosha/





+飲食のメモ。
本館1階にある食堂でランチ。12時台は券売機の前に行列ができるが、回転は早く、席もどこかしら空いている。職員らが一斉に職場に戻る12時50分頃にはウソのように空く。

ご飯、味噌汁、小鉢が付くA,B,Cのランチメニューから、Bの「春キャベツメンチカツ」(¥620)をオーダー。カロリー表示が一番高かったようだが、今日はガッツリと食べたいので気にしない。+50円で「冷や奴」の小鉢も追加。2種類の漬け物とお茶はセルフ。

メンチはサクッと揚げたてで、おいしゅうございました。ごちそうさまでした。